藻塩とは?

海からの贈り物

日本の塩作り

© Hyogo Prefectural Museum of Archaeology

日本は、岩塩や塩湖などの塩資源に恵まれていなく、気候も高湿多雨で天日製塩にも適しておらず、約3%の塩分を含む海から塩を取り出す方法に古来から苦心し独自の製塩方法が生まれました。 私たちの遠い祖先は、はるか昔はもっとも原始的な製塩の方法として海藻を焼いた灰(灰塩)そのものを使用したと考えられます。
「藻塩焼き製法」

古来より製塩が盛んだった淡路島

弥生・古墳時代には技術が発展し「灰塩に海水を注ぎ、かん水を採り煮詰める方法」「藻を積み重ね、上から海水を注ぎかん水を作り煮つめる方法」等の日本独自の製塩法に発展されたとされます。 製塩が盛んな地域であった淡路島は、遺跡が多く製塩土器が数多く出土され、古来「塩作り」が盛んだったことが伺えます。

各地で遺跡と共に数多くの製塩土器が出土

淡路島では、洲本市内で製塩土器出土遺跡が13箇所、北淡路(現淡路市)では、32箇所出土し、実際に塩生産が行われていた淡路島は周囲をすべて海で囲まれていることから、多くの製塩遺跡が出土している。その多くは、津名郡(現淡路市)・須本市(現洲本市)・三原郡地域(現南あわじ市)に集中して出土しています。

淡路島の製塩土器編年表

© AWAJISHIMA MUSEUM

製塩土器は、時代が下るにつれ脚台式から丸底式へと形が変化し脚台式は脚台の縮小化丸底式は大型化へと変化することは明らかである。脚台が小さい古墳時代の中頃~丸底式を用いた大規模製塩が始まり、その後奈良から平安時代にかけて、小型の脚台を持つ脚台式が数点出ているが、丸底式が多く出土している。また、炭などと共に大型の丸底式がまとまって出土している。

万葉集で詠われた淡路島の藻塩

万葉集で、『藻塩焼き』を詠んだ歌があり、古くから淡路島で製塩が行われていたことが伺える。

【訳】
名寸隅の舟瀬から見える淡路島の松帆の浦に、朝凪の玉穂を刈って、夕凪に藻塩を焼く海人おとめが言るとは聞くが、それを見に行くすべもないので、ますらをとしての心もなしに、たおやめのようにしおれて、行きつ戻りつして、私は恋い募っている、舟もないので

また、藤原定家(ふじわら の ていか※)が撰集し、自身の作で
【訳】
いくら待っても来ることのないあなたをこうして待ち続けている私の身は 松帆の浦 夕凪のころに焼く藻塩のようにあなたをずっと恋こがれているのですよ

という歌があり、「新勅撰和歌集」や「百人一首」に残されている。

この歌は、現代語で「松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、私の身は来てはくれない人を想って、恋い焦がれているのです。」という恋の歌。
ここで登場する言葉で【まつほの浦】は現存する兵庫県淡路島北端にある海岸の地名で、実際に藻塩石碑が存在する。

古来の製塩方法

万葉集で「・・・淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉穂刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海人をとめ淡路島の主な藻塩遺跡分布図・・・」(巻6の935)と詠われているように、古代の塩作りには海藻が利用されていたと云われている。ここで詠われている玉藻は、玉の付いた藻(ホンダワラ、アカモク)と考えられ、海藻を使用してかん水(灌水:塩分を濃くした海水)を作っていた製法が藻塩法と呼ばれ、いくつか藻塩法が想定される。

(1)ホンダワラ、アカモク等(玉藻)という海藻を焼いたものそのもの。(灰=灰塩)
(2)灰塩(はいじお)を海水をで漉し、かん水(濃い海水)を採り、これを煮つめて作った塩。
(3)乾燥したホンダワラ、アカモク等に何度も海水を掛け、かん水(濃い海水)を採り、これを土器で煮つめた塩。
万葉集で「塩焼く」という歌はいくつかあるが、「藻塩焼く」と詠われているのは淡路島の一例だけであり、藻塩に冠した美称と考えられる。

古事記による国生み神話

この神話はもとは淡路の海人族の神話であったといわれています。おのころ島の所在としては榎列下幡多のおのころ島神社のあるおのころ島、沼島、又は淡路島そのものなどいろいろな説があります。 淡路島にはおのころ島神社周辺や伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)、おのころ神社と、各所に国生み神話ゆかりの地が残っています。

伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀)

イザナギ神宮と読み地元では「いっくさん」と親しまれている。イザナギの尊神様とイザナミの尊神様の二神が祭られています。 日本書記によれば、国生みを終えたイザナギは、国の運営を子供の天照大神様(あまてらすおおみかみさま)に任せ、この地で余生を送ったと記されています。

おのころ島神社(南あわじ市榎列下幡多)

古事記・日本書紀によれば、神代の昔、国土創世の時にニ神は天の浮橋にお立ちになり、天の沼矛を持って海原をかき回すに、その矛より滴る潮が、おのずと凝り固まってできたのが淡路島だと言われています。いざなぎの命といざなみの命が降りたのがこの地だと言われています。

おのころ神社(南あわじ市沼島)

小高い山の上、まるで天に届くかのようなまっすぐな階段を上ると、おのころ神社に到着する。この山全体が「おのころさん」と呼ばれる神体山だ。天地創造の神であるイザナギ、イザナミの二神を祀っている。
淡路島は、古事記・日本書記でも紹介されている通り、国生みの島としての神話が残っています。 「古事記」の中でイザナギの尊神様、イザナミの尊神様の二神様が天の浮橋(あめのうきはし)に立ち、天の沼矛(あめのぬぼこ)を海にかきまわして引き上げると、矛(ほこ)の先からしたたり落ちる塩が重なり積もって淤能碁呂島(おのころじま)になり、二神様はこの島に降りて、夫婦の契りを結んで、島々や神々を生み出した。 まず、淡路島を生み、続いて四国、隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡、最後に本州を生んだと云われている。(「古事記」「日本書紀」)

食材の宝庫であった御食国

「御食国(みけつくに)」とは、古来、朝廷に「御贄(みにえ=「御食」:天皇の御食料を指す」)を納めた国のことです。

万葉集においては、伊勢・志摩・淡路などが御食国として詠われるとともに、平安時代に編集された「延喜式」に、天皇の御食料である「御贄(みえに)」を納める国として、記されています。

平城京跡出土木簡また、奈良時代の平城京跡から出土した木簡の中に「御贄(みにえ)」を送る際につけた荷札が発見されていることなどからも、御食国であったことがうかがい知られます。淡路の塩は税として朝廷行事の贄として貢納され、賃金として支給され、さらには売買も行われていた。
淡路は、古くから塩や海産物等を納める「御食国」として、歴史的に重要な役割を果たしてきました。